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今からおよそ280余年前、最初江戸市中に「いろは四十八組」の町火消が江戸に設けられたのは、八代将軍徳川吉宗公の時代で時の名奉行、南の大岡越前守、北の中山出雲守、中の伊丹能登守の三奉行が協議をして組み立てた。 |
しかし、ひとたび町場から火事が起これば、武家屋敷と言えども火事の洗礼を免れず、一蓮托生の運命にあったことは当然で、振袖火事をはじめ数多くの江戸の大火がこの事実を物語っている。こうした消防に国境なしと言う事態を憂慮した儒学者荻生徂徠の 「江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである」との進言を受けて、時の町奉行大岡越前守忠相が「火災が起きたときは、風上及び左右二町以内から火消人足三十人ずつ出すべきこと」と奉行令を出した。この町触れによって、消火に当たった者を店火消と呼んでいたが、いろいろな人々の集まりでしたから統制もなく、火災現場へ駆けつけてもただ右往左往するばかりだった。 しかし、この制度が町火消誕生の芽ばえとなり大岡越前守が施策として打出したのが「江戸の町は江戸の庶民の手で護らせる」という、いわゆる自衛、自治の考え方の根ざした町火消の創設と言われている。 |
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いろは組は、隅田川を境とした西側の区域に組織されたもので、「へ」「ら」「ひ」「ん」の四文字組は「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂が悪いというとして、「百」「千」「万」「本」に変えられた。そして、町火消に要する費用は、町費をもって賄うよう、それぞれの町会などに分担させた。 当時町火消の組織は |
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この享保三年、町火消の組織と共に纏というものが造られた。纏のルーツは15世紀頃と言われ、戦場で侍大将の馬印だったが、これを町火消誕生後に組の旗印として取り入れられ纏のぼりと言われ「いろは四十八組」に纏が置かれた。その頃の纏は金銀の箔を置いた大纏と小纏との二種があって、現在の纏の「馬簾」(ばれん)がなく、大きな札をかけて、東は何町より何町まで、南は何町より何町まで、西は何町より何町まで、北は何町より何町まで、この組合何ヶ町と記して掲げ、他に幟を1本附属として この町火消は、明治維新によって市部消防組と名を改め、東京全部を第一大区より第六大区までに区分して各消防分署を設け纏の数も一大区は一番組より十番組まで十本、他の二大区より六大区までは、各一番組 |
より六番組まで6本づつ都合40本とし、消防夫も一組40人に限られ組頭、副組頭、小頭、同副、筒先、纏持、梯子持、刺又持、平人夫と、それぞれ消防署より役割を命じられた。神田の町火消一番組「よ組」は第一大区一番組となるが、担当地域は江戸時代と変わらず、そのままの地域を受け持った。東京市政裁判所、東京府、さらに東京警視庁と所属を移しながら、引きつづき火災警防の第一線を担当し東京の町を守り抜いてきた。消防組(明治5年)→警防団(昭和14年)→消防団(昭和22年)と改組されていきました。現在の消防団は、昭和23(1948)年の消防組織法に根拠を置くもの。 町火消の名残は、(社)江戸消防記念会に引き継がれており、町火消、市部消防組の後裔で、その心を心として町火消以来永い歴史と伝統により、連綿と受け継がれてきた纏、半天、火消し道具等の保存、木遣、梯子乗り等の技術伝承などをの、火消し文化を後世に伝える為、市部消防組の有志により昭和14年に結成され、その後、昭和29年に公益法人となり、平成15年末現在、88組、約1,000人余の会員たちが伝統を守り続けている。 |
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