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 今からおよそ280余年前、最初江戸市中に「いろは四十八組」の町火消が江戸に設けられたのは、八代将軍徳川吉宗公の時代で時の名奉行、南の大岡越前守、北の中山出雲守、中の伊丹能登守の三奉行が協議をして組み立てた。
 そして享保三年十月十八日附けをもって一町より駆付人足30人づつを差し出す様言い渡された。その後、元文二年五月一町より15人づつとなり、寶暦二年十月八日よりは、店人足消防方を一町から2人より45人までを限り差し出す事となった。さらに享保五年には、本所、深川に南、北、中の16組がうまれた。
 当時、江戸の消防組織には定火消、大名火消などがあったが、これらはあくまでも幕府直轄、もしくは各大名の私設の消防常備軍で、江戸城、大名屋敷をはじめ、上野寛永寺、浅草、本所の 御城米蔵、東叡山、湯島聖堂など徳川家ゆかりの建物という柳営中心の防護が主であり、江戸の庶民はカヤの外で幕府の庇護は受けられなかった。 

しかし、ひとたび町場から火事が起これば、武家屋敷と言えども火事の洗礼を免れず、一蓮托生の運命にあったことは当然で、振袖火事をはじめ数多くの江戸の大火がこの事実を物語っている。こうした消防に国境なしと言う事態を憂慮した儒学者荻生徂徠の 「江戸の町を火災から守るためには、町組織の火消組を設けるべきである」との進言を受けて、時の町奉行大岡越前守忠相が「火災が起きたときは、風上及び左右二町以内から火消人足三十人ずつ出すべきこと」と奉行令を出した。この町触れによって、消火に当たった者を店火消と呼んでいたが、いろいろな人々の集まりでしたから統制もなく、火災現場へ駆けつけてもただ右往左往するばかりだった。 しかし、この制度が町火消誕生の芽ばえとなり大岡越前守が施策として打出したのが「江戸の町は江戸の庶民の手で護らせる」という、いわゆる自衛、自治の考え方の根ざした町火消の創設と言われている。

 いろは組は、隅田川を境とした西側の区域に組織されたもので、「へ」「ら」「ひ」「ん」の四文字組は「へ」は屁に、「ひ」は火に通じ、「ら」は隠語、「ん」は語呂が悪いというとして、「百」「千」「万」「本」に変えられた。そして、町火消に要する費用は、町費をもって賄うよう、それぞれの町会などに分担させた。

当時町火消の組織は 
一番組 い組・は組・に組・よ組・万組
二番組 百組・千組・ろ組・め組・も組・せ組・す組
三番組 て組・あ組・さ組・き組・ゆ組・み組・本組
五番組 く組・や組・ま組・け組・ふ組・こ組・え組・し組・ゑ組
六番組 な組・む組・う組・ゐ組・の組・お組
八番組 ほ組・わ組・か組・た組
九番組 れ組・そ組・つ組・ね組
十番組 と組・ち組・り組・ぬ組・る組・を組 とし

 この享保三年、町火消の組織と共に纏というものが造られた。纏のルーツは15世紀頃と言われ、戦場で侍大将の馬印だったが、これを町火消誕生後に組の旗印として取り入れられ纏のぼりと言われ「いろは四十八組」に纏が置かれた。その頃の纏は金銀の箔を置いた大纏と小纏との二種があって、現在の纏の「馬簾」(ばれん)がなく、大きな札をかけて、東は何町より何町まで、南は何町より何町まで、西は何町より何町まで、北は何町より何町まで、この組合何ヶ町と記して掲げ、他に幟を1本附属として
一、組合の町中に火事ある時は早々駈け集まるべき事
一、組合外に火事有之候て組合の町に風筋あしき時、境に集まり防ぐべき事
一、役人下知なき内組合の外へ一切参るまじき事等の條目を記し、その外、纏の印をつけた提灯をもちだした。

 この町火消は、明治維新によって市部消防組と名を改め、東京全部を第一大区より第六大区までに区分して各消防分署を設け纏の数も一大区は一番組より十番組まで十本、他の二大区より六大区までは、各一番組

より六番組まで6本づつ都合40本とし、消防夫も一組40人に限られ組頭、副組頭、小頭、同副、筒先、纏持、梯子持、刺又持、平人夫と、それぞれ消防署より役割を命じられた。神田の町火消一番組「よ組」は第一大区一番組となるが、担当地域は江戸時代と変わらず、そのままの地域を受け持った。東京市政裁判所、東京府、さらに東京警視庁と所属を移しながら、引きつづき火災警防の第一線を担当し東京の町を守り抜いてきた。消防組(明治5年)→警防団(昭和14年)→消防団(昭和22年)と改組されていきました。現在の消防団は、昭和23(1948)年の消防組織法に根拠を置くもの。 町火消の名残は、(社)江戸消防記念会に引き継がれており、町火消、市部消防組の後裔で、その心を心として町火消以来永い歴史と伝統により、連綿と受け継がれてきた纏、半天、火消し道具等の保存、木遣、梯子乗り等の技術伝承などをの、火消し文化を後世に伝える為、市部消防組の有志により昭和14年に結成され、その後、昭和29年に公益法人となり、平成15年末現在、88組、約1,000人余の会員たちが伝統を守り続けている。


 書道から言えばお家流がありますが、それは幕府の公文書に使われ庶民の生活から生まれた文字、歌舞伎の「勘亭流」相撲の「相撲文字」寄席の「寄席文字」千社札の「千社札文字」総して江戸文字と言います。千社札だけが職業に関係なく個人の世界のもの、絵師、文字師、彫り師 摺り師と工程を経て和紙に仕上げる一枚の庶民芸術の札。江戸時代はお家流を少し個性的にした程度で、ちょうちん屋が兼ねる場合が多かったそうです。専門の書き手では生活ができず、副業で書の好きな人が道楽のつもりで始めたのがきっかけで注文がきて一生やるはめになった例もあり、江戸末期頃の「田キサ」「田てう」明治に入り署名を残した人は何人もおりますが、明治、大正、昭和にかけては初代二代の「高橋 藤」「太田櫛朝」が居ります。所属の納札会の書家としてレタリング形式で書体を創り千社札文字を確立させました。
「二代目高橋 藤」亡き後「鈴木本和」が受け継ぎました。 

江戸の勇みの象徴とも言える町火消しが、組印に定着させた書体を力文字、伊達文字、撥鬢文字、纏文字などと呼んでいる。火消し着用の革羽織、印半纏、刺子の長半纏など、背の代紋や襟に染め付けた組印の書体は、起筆、終筆とも力を入れて極端に肉太とした書体で、いかにも力文字と呼ぶのに相応しく江戸町火消しの心意気と威勢と誇りを示す豪儀で粋な印となった。
火がかりに命を落とす火消しは、神の加護を願ってこれを加護文字としている。ともあれ、纏や半纏に印した組名・役職の文字は火急の中で夜目遠目、力強く頼もしい表示となり、その伊達な書体は一早く千社札や職人たちの半纏の表示文字となった。

その他に、大工や左官その他の職人たちの印半纏の腰に印した角文字がある。これは町火消しの組頭用半纏の腰印からの援用だったと思われています。これらの半纏の背鏡、襟文字、腰文字により職種、役職、屋号は認知されたことから半纏が看板と呼ばれる由縁でもある。

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